レイ・コーミエ極真拳武会センター
極真空手拳武会の歴史
大山総裁 1923-1994
極真空手の創始者
彼は多くの武道家と交流し、世界中を旅して様々な武道を学び、空手を教え、直接打撃空手(極真空手 - フルコンタクト空手)の創始者でもあります。
15歳で船越義珍先生に入門し、その後拓殖大学、早稲田大学で学ぶ。
1948年4月から1年8ヶ月間、清澄山で隠遁修行を行った。
1952年(昭和27年)、柔道四段の遠藤幸吉とともに渡米し、約1年間滞在して、全国各地で空手の演武やプロレスラー、ボクサーとの対戦を行った。
帰国後、素手で牛を倒し(計47頭、うち4頭は即死)、その映像は1954年(昭和29年)に映画『空手闘牛』として公開された。
池袋の旧バレエスタジオにあった大山道場を経て、1964年(昭和39年)に国際空手道連盟極真会館を設立し、多くの名門弟子や選手を輩出。
また、多くのフルコンタクトスタイルの源流となり、1975年には第1回世界空手道選手権大会を開催し、世界中で極真空手ブームを巻き起こした。
彼は1994年4月26日に70歳で突然亡くなった。
極真空手剣武会
広重 快兆 1947-2018
極真空手拳武会の創始者についての簡単な歴史:
広重 毅(ひろしげ つよし、1947年11月1日 - 2018年4月18日)は、日本の武道家、空手指導者。広重は極真空手空手団体「極真空手拳武会」の創設者であり初代会長である。
歴史
広重剛志は1947年11月1日、福岡県北九州市に生まれる。1973年6月、25歳の時に極真会館総本部に入門。1972年6月、極真会館総本部道場で修行を開始。3年後、大山倍達の若獅子寮に入寮し、寮長として若手内弟子の活動を統括。28歳という異例の高齢で第8回全日本大会に初参戦し、トーナメントに出場。この大会後、一拳の稽古も追加し、翌年の第9回全日本大会では7位に入賞。その後、第10回全日本大会で4位、第11回全日本大会で5位を獲得。1979年には第2回世界オープン空手道選手権大会に日本代表として出場。
大山倍達が存命中、広重は国際空手道連盟東京城南支部の責任者を務めた。城南川崎支部長時代には、緑健治(現新極真会代表)や和見一など、極真空手の将来の伝説となる多くの選手を指導した。1994年4月に極真空手の創始者大山倍達が逝去した後、広重は極真会館関東本部の理事長を務め、当時は松井正敬が会長を務めていた。2002年12月、松井正敬の極真の方向性に納得がいかなかった広重は、蝋山初男とともに松井の極真会館を脱退した。
翌年2003年1月、蝋山初雄氏が設立した極真館国際本部に入団し、副理事長に就任。極真館では、東海林良介氏、夏原望氏、藤井悠介氏、藤井正樹氏など、後に空手道選手権で優勝する多くの格闘家を指導。2013年8月、弘重道場杯第1回極真空手選手権大会が川崎体育館で開催された。
2017年2月、副館長を辞任し、極真館を自主退会。その後、広重氏は「極真空手武道空手団体 極真空手剣武会」を設立。広重会長は2018年4月18日、70歳で逝去した。
極真空手剣武会
金子 正博 会長 - 現会長
金子正弘氏は、極真空手界の名人であり、黒帯8段の資格を持つ。1964年東京生まれ。数々のチャンピオンを育てた名匠、初代会長・弘重氏の側近として活躍。
金子会長自身の極真空手への影響は大きい。彼は卓越した指導力と選手育成能力で広く知られている。彼の指導は、伝説のチャンピオンである一見一や、全日本選手権で目覚ましい成功を収めた藤井兄弟、秀介と正樹を含む多くのトップ選手のキャリアを育んできた。
彼の影響力は日本にとどまらず、ポーランド、南アフリカ、ウクライナ、イラン、ロシア、ブルガリア、アメリカ、スイス、アルメニア、イタリア、カナダ、チリ、韓国など、さまざまな国から指導依頼を受けています。セミナーを開催したり専門知識を共有したりするために各地を飛び回っており、極真空手の世界的人物としての地位を固めています。
金子氏はコーチとしての役割以外にも、JFKO全日本フルコンタクト空手連盟とWFKO世界フルコンタクト空手連盟の両方で指導的立場を務めており、極真空手の国際的規模での成長と発展への取り組みをさらに示しています。